ABOUT

漢文学者諸橋轍次(1883-1982)
ひたむきに学問を究めた
妥協なき漢学者

轍次は総ページ数1万5千、50万語にも及ぶ語彙を網羅する『大漢和辞典』を編纂した漢学者です。現在の三条市庭月に生まれた轍次は、幼いころから父の教育を受け漢学の素養を身に着けました。新潟県第一師範学校や東京高等師範学校を卒業したのち、教師をしながら研究者として活躍していた轍次は、文部省の命を受けて中国へ留学した際、一つのことを調べるために多くの辞書類を調べなければならないという不便さを痛感しました。そのため、徹底した語彙数を備え、かつ出典が正確な辞書の必要性を感じ、一種類で完遂できる辞典を目指し『大漢和辞典』の編纂に心血を注ぎました。

第二次世界大戦の最中も編集作業を精力的に進め、ようやく出来上がっていた全巻の組版でしたが、昭和20年の東京大空襲によりすべてが灰になり、自身もまた白内障で右目を失明し、左目の視力も低下します。こうした幾多の苦難を乗り越え、東アジア圏における近代以降の代表的な辞典・辞書の一つに数えられる『大漢和辞典』を昭和35年に完成させました。全13巻が刊行されるまでに、実に30年以上の歳月を要した、世紀の大事業でした。

『大漢和辞典』は、日本のJIS・UCS(Unicode)の文字コード策定にあたり、文字を同定するための参考図書として大きな役割を果たしました。いまインターネット上で漢字が読めるのも、轍次の業績によるものと言えます。


HISTORY

1883年(明治16年)

6月4日南蒲原郡四ツ沢村(現三条市庭月)に生まれる

1887年(明治20年)

父(安平)から中国初学者用学習書『三字経』の素読を習う

1896年(明治29年)

奥畑米峰の私塾「静修義塾」に入り3年間漢学を学ぶ

1900年(明治33年)

新潟県第一師範学校(現新潟大学教育学部)入学

1904年(明治37年)

新潟県第一師範学校卒業
東京高等師範学校(現筑波大学)国語漢文科入学

1908年(明治41年)

東京高等師範学校国語漢文科卒業
群馬県師範学校(現群馬大学共同教育学部)教諭に就任する

1910年(明治43年)

東京高等師範学校助教諭に就任する

1919年(大正8年)

文部省の命により哲学及び文学研究のため中国へ2年間留学する

1921年(大正10年)

中国留学より帰国する
三菱財閥総裁岩崎小彌太から静嘉堂文庫長を委嘱され、昭和30年まで務める
東京高等師範学校教授、國學院大學講師(嘱託)に就任する

1926年(大正15年)

東京高等師範学校漢文科学科主任、大東文化学院(現大東文化大学)教授、駒澤大学講師に就任する

1928年(昭和3年)

大修館書店と大漢和辞典の編纂が約定される

1929年(昭和4年)

論文『儒学の目的と宋需の活動』で東京帝国大学から文学博士の学位を受ける

1930年(昭和5年)

東京文理科大学(現筑波大学)教授に就任する

1932年(昭和7年)

東京文理科大学付属図書館館長に就任する

1937年(昭和12年)

宮中の講書始の儀で漢籍進講を行う

1940年(昭和15年)

文部大臣表彰(教育功労)を受ける

1943年(昭和18年)

『大漢和辞典』第1巻を刊行する

1944年(昭和19年)

『大漢和辞典』第1巻の編纂により、朝日文化賞を受賞する

1945年(昭和20年)

東京大空襲により『大漢和辞典』全巻の組版と資料が焼失する
東宮職御用掛を拝命する
正三位に叙せられる

1946年(昭和21年)

東京文理科大学名誉教授に就任する
『大漢和辞典』編纂に再び取り組むも、右眼を失明し左眼も視力が衰える
6年間、皇太子明仁親王に漢学を進講する

1955年(昭和30年)

『大漢和辞典』の原稿完成により、紫綬褒章を受章する

1957年(昭和32年)

都留市立都留短期大学学長に就任する

1960年(昭和35年)

都留市立都留文科大学学長に就任する
『大漢和辞典』全13巻を完成させる
浩宮徳仁親王御誕生に際し、御名号御称号を勘申する

1962年(昭和37年)

8月8日下田村名誉村民(市町村合併後三条市名誉市民第1号)となる

1965年(昭和40年)

文化勲章を受章する
礼宮文仁親王御誕生に際し、御名号御称号を勘申する

1969年(昭和44年)

紀宮清子内親王御誕生に際し、御名号御称号を勘申する

1976年(昭和51年)

勲一等瑞宝章を受章する

1982年(昭和57年)

『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』を刊行する
12月8日逝去(99歳)


EXHIBITION

大漢和辞典
大漢和辞典
諸橋轍次の書「以和為尊」
諸橋轍次の書「以和為尊」