ABOUT

プロレスラージャイアント馬場(1938-1999)
体も心もジャイアントな
愛すべき東洋の巨人

馬場は「スポーツをしたい」という純粋な気持ちを貫き、2メートルを超える長身を活かして、多くの人に夢と希望を与えてくれました。

野球を始めたころは、サイズの合う大きなスパイクがなく、高校の野球部にはすぐには入部できませんでした。その後友人らの協力により入部することができましたが、甲子園出場はかないませんでした。しかし、長身から繰り出す剛球が話題となり、読売ジャイアンツからのスカウトを受け、プロ野球選手となりました。二軍では最優秀投手として活躍しましたが、病気や大けがをしてプロ野球選手としての道が断たれました。

それでもスポーツを続けたいという一心でトレーニングを続けていた馬場は、プロレスラーとして活躍していた力道山に認められ、プロレス界に足を踏み入れました。非常に厳しい練習をこなし、試合で高い評価を得た馬場は、武者修行のため渡米します。短期間で成長し実績を積んだ馬場は、2度目の渡米の際に、友人であり後に最大のライバルの一人となるブルーノ・サンマルチノと試合をしました。サンマルチノとはその後も友情を温め、のちに「キャデラック」をプレゼントしてもらうほどの仲でした。

馬場は帰国後まもなくインターナショナル・ヘビー級王座に就き、その後幾多のタイトルを奪取・防衛していきました。
プロレスラーとしての引退記念試合では、最後の対戦相手となったサンマルチノから、リング上で「君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった」という言葉が贈られました。


HISTORY

1938年(昭和13年)

1月23日三条市西四日町(現三条市西四日町二丁目)に生まれる

1953年(昭和28年)

新潟県立三条実業高等学校(現三条商業高等学校)入学

1955年(昭和30年)

プロ野球球団の読売巨人軍に入団する(背番号:59)

1960年(昭和35年)

大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)へ入団するも不慮の怪我によりプロ野球選手を引退する
日本プロレスに力道山を訪ね入門を許される

1961年(昭和36年)

武者修行のため渡米し「ショーヘイ・ビッグ・ババ」や「ババ・ザ・ジャイアント」などのリングネームで活躍する

1963年(昭和38年)

力道山とともに帰国する
日本でのリングネームを「馬場正平」から「ジャイアント馬場」に改名する

1964年(昭和39年)

第6回ワールド・リーグ戦へ参加する
豊登とのコンビでアジアタッグ選手権にて初のチャンピオンとなる
三条実業高等学校グラウンドでアジアタッグ王座初防衛に成功する

1965年(昭和40年)

NWA(全米レスリング同盟)代表のディック・ザ・ブルーザーを下し、復活インターナショナル王座のチャンピオンとなる

1966年(昭和41年)

第8回ワールド・リーグ戦で初優勝する(以後通算6度優勝する)
吉村道明とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を奪取し、インター二冠王となる

1967年(昭和42年)

アントニオ猪木とのコンビでインター・タッグ王座を奪取する

1972年(昭和47年)

日本プロレス及び選手会に役員・所属レスラーとしての辞表を提出する
全日本プロレスを旗揚げする

1973年(昭和48年)

PWF(太平洋沿岸レスリング連盟)認定世界ヘビー級初代王者に認定される

1974年(昭和49年)

日本人で初の第49代NWA認定世界ヘビー級王者を獲得する(以後通算3度王者となる)

1980年(昭和55年)

国内通算3000試合連続出場を達成する

1993年(平成5年)

国内通算5000試合出場を達成する

1998年(平成10年)

後楽園ホールで還暦記念試合を開催する
前人未到の国内通算5758試合出場を達成する

1999年(平成11年)

1月31日逝去(61歳)

2015年(平成27年)

「三条の英雄・世界のジャイアント馬場を名誉市民にする会」を中心に署名活動が展開される(署名総数:12413筆)

2016年(平成28年)

9月5日三条市名誉市民第6号となる


EXHIBITION

等身大フィギュア
等身大フィギュア
ジャイアント馬場が巨人軍時代に着用していたユニフォーム
ジャイアント馬場が巨人軍時代に着用していたユニフォーム